1968年、私は日本大学を卒業し大昭和製紙東京支社に入社、午前中だけの勤務で午後から今までと同じく日本大学の桜上水にある陸上競技場で練習をしていた。その年の秋にはメキシコ・オリンピックが開催される。
当時はまだ映りの悪い白黒テレビであったが、このオリンピックのハンマー投げに出場していた菅原武男さん、石田義久さん両先輩の投てきを、下宿していた下高井戸のアパートで食い入るように見ていた。
この少し前であるが、私はハンマー投で新たに進むべき道を見つけた。それがその後の大躍進に繋がっていくのである。

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  (写真)大学一年時のハンマー投

この急速な伸びは、自分でも驚くばかりであった。

日本大学に入学してからは、ハンマー投を専門として順調に記録を伸ばしていく。1966年、大学3年生の春に6446の世界ランク41位(当時の世界記録は71m台)の記録を投げる。
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 (写真)大学3年生、初のアジア大会出場。当時日本記録保持者だった菅原武男さんについて2位。
       この頃から長いスランプに入っていった。

その直後からである。スランプ(低迷)が始まった。それを脱するため猛練習を続ける。しかし、このスランプはとても長く、3年近くも続いた。そして最大の目標としていた1968年のメキシコ・オリンピックの年を迎える。国内の最終選考会では、当時オリンピックに出場するための標準記録である64mを超えることがでず、結局出場はならなかった。そればかりか、60mのラインも割って59m台に終わったのである。

長い間、猛練習をしてきたにもかかわらず、逆に悪くなっていったことに、打つ手を失いかけていた。だが、この低迷には必ず原因があると考えた。薄々は感じていたが、これはハンマー投げの技術(投てき動作)以外にはないと確信した。そこからはグラウンドには行かず、部屋の中で徹底して投てき技術の研究を始めたのである。

 
まず、自分の投てき動作を見るため、8㎜カメラを用いた。当時は、今のように簡単に撮影できるデジカメなどの機器がない時代。8㎜カメラは音声の録音ができない、動画のみ撮影できる機器である。後輩に投擲シーンを撮ってもらうが、現像には1週間以上かかるため、すぐ見ることはできない。できたフィルムを映写機にかけ部屋の襖に映して自らの投げを見ていく。

何日か時間を掛けて見ていくと、私の投てき動作の問題点が少しずつ分かってきた。その問題点の解決法を考えていくうちに、このように動けば良くなるだろうというアイディアが生まれてくる。このアイディアを忘れないうちに、部屋の中の畳の上で、靴下を履き、身体で表現してみる。言わば、アイディアを身体に染み込ませる、感覚の訓練と言った方がよいかもしれない。

さらに1日に6~7時間、何日も見ていくうちに、いくつもの問題点とともに、それを修正するためのアイディアが泉のように湧いてきたのである。全体の動きがまとまるまで、3週間位かかった。そのアイディアを試すためグランドに行き投げる。そして、その投てきをまた8㎜カメラに撮り、それを見ていく。その繰り返しが続いていくなか、自分が今までに経験したことのない良い感触の投げになっていくことを感じた。

この続きは、また次のブログで書いていきたい。


さて、つい数日前イタリアンレストランにいってきました。
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ピザの窯が印象的な店。
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イタリア、ナポリから来たシェフさんが窯で焼いてくれたピザ。
とても美味しかったです。

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